揺らぐ性を生きる~私はジェンダー・フルイド

ジェンダー・フルイドという概念を1人でも多くの方に知っていただきたく、いろいろと書いております。

一人ひとりみんな違うを理由に連帯できないの?

このところ、LGBTQに関する考察についてよく書いています。

半年前ぐらいの記事ですけど、こんなのを見つけました。

rollingstonejapan.com

あたし自身「ジェンダー・フルイド」という概念を知って救われました。

なので呼び名というのは大切だと思います。

 

だけど、呼び名が同じ=同じ人間というのは全然違うわけで、バイセクシャルと呼ばれる人も一人ひとりはまったく違うのです。

 

LGBTQのムーブメントを見ていると、その辺が整理されていないと、いつも思います。

 

そもそも男と女という二元論が嫌だったはず。

でも細かく分けたって、2が50とか100とかになるだけの話。

分類してレッテルを貼るのであれば、二元論と大差はないわけでして・・・。

それは、単なるジェンダー博物学です。

 

レッテルではなく、アイデンティティ。あるいは自分が世界に占めるポジション。そうであれば呼び名に安心できます(*1)。

 

でも、レッテルであるならば、差別のファクターになるだけの話。

博物学啓蒙思想→ヨーロッパ中心主義」みたいな・・・。

(そう。要するに欧米人の思考法なんだよね)

 

男と女という二元論ではなく、一人ひとりが違うから、その違いを大切にしよう――という理由で連帯できないものなのでしょうか。

 

今のままでは、宗教論争です。自分は「○○教××宗△△派」ってことばかりの・・・。

*1:ちょっと難しい話になるけれど、ポジションは差異でしか決められないから