揺らぐ性を生きる~私はジェンダー・フルイド

ジェンダー・フルイドという概念を1人でも多くの方に知っていただきたく、いろいろと書いております。

男女という枠組み自体が抑圧

昨日、こんな記事を書きました。

結局自分が決める - 揺らぐ性を生きる~私はジェンダー・フルイド

今日、ネタ探しをしていたら、ジュディスバトラーという思想家とその理論のほんのさわりですが知りまして、あながち間違ったことを書いたわけでもないと思った次第です。

 

ja.wikipedia.org

上からの、ちょっと長い引用になりますが・・・

ジェンダー・トラブル』

同じく同性愛者であるミシェル・フーコーによって先鞭をつけられたジェンダーセクシュアリティ研究を大胆に推し進め、バトラーの理論家としての地位を確立した書物である。

バトラーはジェンダーを文化的に規定された構築物だととらえ、生物学的な性(セックス)とは区別されるものと考える。さらに生物学的な性の概念も、文化的なジェンダーの規範によって重層的に規定されたものであり、文化的なジェンダーによって汚染されていない純粋な性というものはありえないと主張する。すなわち、生物学的な定義だとみなされている性の区別は、文化的なジェンダーのパフォーマンスによって構築されるものだとバトラーは述べる。それゆえ、性的な規範は文化のレヴェルでなされる撹乱行為(サブヴァージョン)によって変化することが可能なものだとされる。

それゆえジェンダーを決める正しい方法も間違った方法もないという。また、ジェンダーは内のアイデンティティを反映しておらず、逆にパフォーマティブアクトによって構成されたものであるという。ジェンダーディスコースによる本物の効果であり、ゆるぎないアイデンティティを反映したものではない。

バトラーの以上のような主張は、女性に生得的で固有な権利を確立しようとしてきた旧来のフェミニズムに再考を迫るものであった。バトラーによれば、性差は文化的に構築されるものであって、けっして生物学的に規定されるものではないからである。代わりにバトラーが提案するのは、多様なジェンダー・パフォーマンスによって男/女という抑圧的な二項対立そのものを脱構築していくという、撹乱的な性的実践である。

 分かりにくい言葉・表現ではありますが、簡単にまとめると、「生物学的な性(セックス)と社会的な性(ジェンダー)は切り離せないのであり、だったら男女という枠組み自体が抑圧なのであって、その枠組みを壊すのがいいんじゃないの」ということだと思います。

 

枠組みを壊すということは、自分のセックス/ジェンダーは何でもいいということでもあります。

なので「自分で決めればいい」という昨日の記事には、それなりの理論的根拠があったと言っていいかなと。

難しげな話で恐縮ですが、理屈としてはそんなに難しいことではありません。でも、実践はかなり難しいよね。