「人は女に生まれるのではなく、女になるのだ」
タイトルは、ボーヴォワールの『第二の性』に出てくる有名な言葉です。
ボーヴォワールは世界的に著名な男女同権論者です。この言葉は、要するに「女性というジェンダーは制度的なものなのだ」ということだと思います。
「思います」などと曖昧なことを言うのは、『第二の性』はかなり分厚い書物でして、読んだことがないからです。正直に告白します。
とはいえ、ネットに「『第二の性』名言」というページがありまして、それを見るとかなり面白そうな本ではあります。女性に対しても辛辣な感じなんですよね。
機会を見つけて読もうと思います。
さて、この「人は女に生まれるのではなく、女になるのだ」という名言は、ボーヴォワールの意図とは関係なく、「私たち」のようなものにとっては、とても勇気づけられる言葉です。
「私たち」というのは、トランス・ジェンダー(*1)、トランス・ヴェスタイト(*2)、ジェンダー・フルイドなどです。
勇気づけられる理由は、「男」に生まれた者でも「女」になれるかもしれないからです。
「私たち」全部に共通するかは分かりませんので、以下私の話にします。
私には様々なコンプレックスがあります。
たとえば生理や妊娠・出産ということがないこと。これはどちらかというと肉体的なコンプレックスです。
女性として学校に通えなかったことにも感じます。女性としての教育を受けていないという意味です(*3)。精神的(文化的)なコンプレックスです。
いろんな意味で、「女性であるということ」が分からないということがコンプレックスなのです。
肉体的なコンプレックスについては、女性ホルモンを投与したり、豊胸したり、性別適合手術を受けたりしても、完全に解消されることはありません。
少なくとも私は望みません。せいぜい豆乳を毎日飲んで、少し胸が膨らんだなと喜ぶ程度です。
「人は女に生まれるのではなく、女になるのだ」という言葉は、私には、「肉体的コンプレックスは気にするな、精神的コンプレックスを学びによって解消すれば、おまえも『女』になれるのだ」と聞こえてくるのです。
ボーヴォワールの意図とは外れているのは間違いありません。なのでフェミニスト、いや一般女性でも怒る人がいるかもしれませんね。それはそれで仕方がありません。
怒らないで理解してくれる女性と仲良くして、いろいろと教えていただくことにします。
実際、女友達は本当に貴重です。
ジェンダーに関する考え方は、友達の間でもそれぞれでしょう。しかし、それでもなぜかみなさん協力的なのです。
理由はよく分かりません。友達だからという方もいました。
そういうものなのだという気もしますが、ジェンダーの奥深さみたいなものも感じます。
焦らず、だんだんと分かっていきたいと思っています。