第4章と第5章が面白深かった―『ありのままの私』
女性装で生きる安冨歩東大教授に改めて興味を持ったので、『ありのままの私』(ポプラ社)を読んだ。
ジェンダー関係の本は日本ではあまり売れないのかもしれない。2015年初版の本なのに既に絶版になっていて、Amazonではマーケットプライスで売られていた。
ただし価値は高いようで、定価より高い出品ばかり。これはすごいことだ。
興味があったのは、なぜ女性装を始めたのか、それをどうやって周囲に認めさせたのかということだった。
だが、ジェンダー・マイノリティーとして苦しんでいる人には、この部分はあまり参考にならないかもしれない。あまりにもすんなり(実際はいろいろ苦労はあったのだろうけど)女性装に至っているからだ。
だが、励みになる人は多いかもしれない。
それよりも、「第4章 無縁の原理」と「第5章 歪んだ視点」は、分かりやすく書いてくださってはいるが、学者らしい深い考察がバックボーンにあるのが伺え、とても面白く読ませてもらった。
「無縁の原理」は、20世紀の日本を代表する日本史学者、故・網野善彦先生の名著であり代表作の『無縁・公界・楽』とマツコ・デラックスさんの関連性について解き明かしている。また三橋順子さん*1の『女装と日本人』にも触れている。
ジェンダー・マイノリティーは、世の中のヒエラルキーからは無縁であり、それゆえに自由。だからマツコさんの毒舌も許される。
だが、いったん世の中のヒエラルキーに、しかも「稼ぐ芸能人=セレブ」などという高いポジションに入ると、一気にバッシングを受ける。
だからマツコさんは常に立ち位置に気を遣っているし、もし世の中のヒエラルキーに組み込まれてしまったら、姿を消そうと考えているのだそうだ。
「歪んだ視点」は、「性同一性障害という言葉」や「性別適合手術」などの差別性とその差別が発生する原理について述べられている。
一瞬でもいいので考えて欲しいのだが、戸籍上の「夫婦別姓」を認めない日本政府が、なぜ「性別変更」は認めるのか? これはなかなか深い問いである。安冨先生は「性同一性障害」という言葉の意味をキリスト教と関連付けて説明し、この問いにも明快に回答している。
以前こんな記事を書いた。
miyuki-morikawa.hatenablog.com
この中で「性同一性障害者」という言葉が差別的だと批判したが、その思いがさらに深まったのだった。
私が進む道は、世間の無理解との戦いと考えていたし、それは変わらないのだが、立ち位置として「無縁」を守りながら、軽やかに自由を勝ち取っていくのがいいのかもしれない。
そんな「新たな戦略」の選択肢を、この本から得た。