マツコさんとは真逆だけど
以前は時折、普段から女モードでいたいとこだわるときがあり、そのときには苦しかったけど、男でもあり女でもあるジェンダー・フルイドという概念を知って楽になった。
男でも女でもあるというと中性的なイメージが強いかもしれないが、ジェンダー・フルイドはその時々で男と女を行ったり来たりするイメージ。
自分の内からの求めに、周囲の求めも鑑みて、その都度いたいと思う性になる。
東大の安冨歩教授のようにずっと女装する生き方にあこがれた時期もあったのだけど、それが本当に自分のしたいことかと自問自答すると何となくNOだった。
仕事の打ち合わせに私が女装で現れることを求める人はいないだろう。きちっとメイクしてレディースのスーツを着てミーティングに行くのにあこがれる面もあるのだけど、毎回だと私自身も面倒だ。かといって、一度それをしたら男モードで行くのは、今度はとても恥ずかしい。
なので仕事の打ち合わせのときには、私は男が楽だ。楽だから男を選んでいる。
家でライターの仕事をするときは、女が楽だし感性も豊かになる。文章も良くなることが多い。なので家では原則女で仕事をする。主夫(婦)でもあるので、家事に切り替わるときの連続性もいい。
何だか都合のいいことを言っていると思う人は多いだろうけど、自分が楽かどうかが生き方を選ぶ基本。
「厳しい生き方」をしている人もいるけれど、その人にとってはそれが楽なんだと思う。その生き方をやめろと言われたら、苦痛だし不安になるはず。
だからジェンダー・フルイドという概念を知ったときの気持ちは、心からの解放感だった。ああ、ここに私の生き方があると感じた。
以前は、マツコ・デラックスさんがオフのときは男装だというのを聞いて、あまり理解できなかった。
せっかく仕事のときに女装ができるのに、なんでいつも女装でいないのかが分からなかったのだ。
今は分かる。私とは真逆だけど、マツコさんもそれが楽なのだ。彼女をジェンダー・フルイドとくくっていいかは分からないが、近い心性はあると思う。
安富先生はどうなんだろう。彼女に聞かないと分からないけど、ちょっとしんどい思いをしている気がしてならない。*1
だが、私の今の目標は女でもやれる仕事もやること。女モードでも稼ぎたい。もしそれがメインになったら、安富先生のようにずっと女でいるかもしれない。
親兄弟や親戚の前以外ではw そこではさすがに求められていないから。
*1:その後、先生の著書『ありのままの私』を読んで、しんどくはないようだと思った。