揺らぐ性を生きる~私はジェンダー・フルイド

ジェンダー・フルイドという概念を1人でも多くの方に知っていただきたく、いろいろと書いております。

男女というのはあるのだけれど・・・

私はジェンダー・フルイドを自認している。これは性自認が揺れ動くということで、男と女という区別があることが前提になる。

世の中には、性の区別という概念自体を認めていない人もいるし、性の区別はあっても自分はその区別とは関係ないという人もいる。*1

だが、性の区別を認めないという人たちは少数派で、ほとんどの人は男女という性の区別は存在するという立場だ。

そこで色々と難しい問題が発生する。

 

ある個人を男か女か区別する際には、基本的には生物学的な根拠で決定する。通常は生殖器で区別するが、厳密には染色体を調べて決める。Y染色体があれば男性、なければ女性というのが一般的だ。

しかし、半陰陽の人たちがいて、この人たちをどちらにするかは、親が決めるケースがほとんどである。その際の判断基準は、まず子供を産めるかどうかだろう。あとは見た目か。*2

既に生物学的に男女を分けるという行為においても、一部で破綻しているのである。

 

とはいえ、ここでは半陰陽の人たちに配慮しつつも、いちおう生物学的に区別できるとしよう。

そうなると、「子供が産めるのが女性」というのが1つの定義になり得る。実際、初潮を迎えると「女になったね」とお祝いするし、生理が上がると「もう女ではない」と自嘲的にいう女性もいる。

以上は、比喩的な話だが、しかし子供を産めない女性もいる。その中には、こういう定義がまかり通ることで苦しんでいる人もいる。

生物学的な区別もけっこう残酷だ。

 

さらにやっかいなのは、文化的な区別があることだ。

肉体的な性別に違和感があるトランスジェンダーの場合でも、単に肉体を変えたいだけという人は少ない。MtF(男性から女性)であれば、服装も変えたいし、メイクもしたいのが普通だ。FtM(女性から男性)であれば、逆にスカートを穿きたくないというのが普通だし、極端な短髪にする人も多い。*3

服装やメイクは文化に属するものだ。文化の中には性役割というものもある。

崩れつつあるが、根強く残っている部分もある。

 

これが私の悩みの種だ。

もはや家事が女性の性役割とは言えないと思うのだけど、それでも私には「女性の性役割」だから家事が好きだという一面がある。家事そのものも好きだが、パートナーを「内助の功」で支えているという気持ちに強い満足感を抱く。

でも、それって「男女差別」じゃないのかという気持ちも強くある。

以前も同じようなことを書いた。このことを考え出すと、自分は揺れているだけでなく、引き裂かれていると感じる。だが、結論が出る目処さえつかない。

 

いっそのこと「女性装もメイクもするけど、家事なんかごめんだわ」という、これも割と多いタイプのトランスジェンダーだったら、こんなことで悩まなくて済んだのにと思うのである。

*1:自分は男女両方であるという人もいるが、これは男女という区別が前提になっている。中間という人も同じだ。ややこしい。

*2:ここは想像が入っている。

*3:トランスジェンダーのほうが典型的な「性」を纏う傾向がある。